トップページ特集>大沢小物語〜第100回卒業記念誌より〜
明治の頃の本校児童
開校当初学校のあった照光院
当時の卒業證書
当時の卒業生の数
明治13年4月
下等小学科第1級1名
明治13年10月
下等小学科第1級5名
明治14年春期
小学教科第1級1名
明治14年秋期
小学教科第1級6名
明治15年春期
小学初等科14名
 明治19年までは、毎年春と秋に卒業生を出していました。
大正9年頃の本校児童
大正13年頃の本校児童
当時の教員の給料
 義務教育国庫負担法が大正7年に公布され、当時の校長先生や先生方の給料は、およそ次のとおりでした。
 大正7年 校長30円 教員20円
 大正9年 校長75円 教員35円
昭和5・6年頃の朝礼体操
昭和10年頃学校の裏の池から
昭和10年頃の修学旅行
当時の勉強
国民科
<修身(今の道徳のようなもの)・国語・国史・地理>
理数科<算数・理科>
体練科<体操・武道>
芸能科<音楽・図工・裁縫(女子)>
体練科というのは、新しく作られたもので、初等科5年生から武道が行われ、木刀や長刀によって鍛えられました。
 また、校訓(今の学校教育目標)は「剛健・勤勉・協同」というもので、通知票は優・良・可・不可という4段階で表していました。
昭和14年ごろの正門付近
昭和14年ごろの正門付近
昭和22年の本校児童
大沢中学校の誕生
 昭和22年4月、新しく大沢町立大沢中学校ができました。大沢小学校の校舎の一部を使ってはじまりましたが、設備が不十分で大変でした。翌23年3月には第1回の卒業生を送り出しましたが、その数は、わずか17名にすぎませんでした。しかし、第2回21名、第3回82名、第4回107名と、卒業生の数も増え、順調な発展をたどっていきました。
 新校舎も昭和24年第1期工事、昭和26年第2期工事、昭和29年第3期工事をもって完成しました。しかし昭和33年4月、出火し、二階建校舎4教室を全焼していまいました。すぐに焼け跡を整理し、やむなく以前の校舎を利用して、急場をしのぎました。
 昭和34年4月1日、越ケ谷中学校と大沢中学校を統合し、越谷市立中央中学校が創立されました。
現在のプール
現在のプール
現在の体育館
現在の体育館
開校百年之碑
開校百年之碑
青い目の人形
青い目の人形
和室「けやきの間」
和室「けやきの間」
 大沢小物語〜第100回卒業記念誌より〜
第1章 学制が定められる前の教育
 越谷は徳川幕府のおひざもとに近く、文化をはじめ、あらゆる面で江戸の影響を最もはやくから受けていました。
 教育においては、久伊豆神社のほとりに庵(いおり:仮の住まい)を作って住んだと伝えられる江戸時代の国学者・平田篤胤の影響もあり、藩校こそありませんでしたが、越谷全地域にわたって、僧侶、神宮、武士、医師などによって庶民教育が行われていました。
第2章 学制の制定と大沢学校の創立
(1)学制の制度
 明治5年、学制が定められ、わが国の近代学校の基本制度ができあがりました。そのもとになる考え方は、全国民に教育を受けさせようとするもので、小学校児童の年齢は、男女とも6歳から13歳までと定められました。これらの児童のすべてに近代教育を受けさせることが学制の目的でしたが、小学校に入って勉強する児童の数はまだ少なく、なかなか思うようにはいきませんでした。
 そのため、明治9年には、入学をうながすための法律まで作られ、すべての児童に学校教育を受けさせるための努力がなされました。また、授業料が払えないために入学できない人に対しては、授業料なしでも入学できるようにとりはからったりもしました。
(2)大沢学校の創立
 大沢小の沿革誌によれば、大沢町・大房村・大林村をひとつの学区とし、明治10年2月7日、照光院というお寺で大沢学校として開校したのを創立としています。
創立の頃の児童数
年度 明治10年 明治11年 明治12年 明治13年
科別 下等小学科 下等小学科 下等小学科 小学教科
性別
1年 8級 15  0 16  5 12  9 13  5
7級  5  0 12  3 14  2  7  6
2年 6級  1  0  4  2  5  8 14  8
5級  0  0  2  0  4  1  6  4
3年 4級  0  0  0  0  5  0  5  5
3級  0  0  0  0  0  0  1  0
4年 2級  0  0  0  0  1  0  1  0
1級  0  0  0  0  0  0  0  0
合計 21 44 61 77
 その頃の学校費は、各町村にとって大きな負担となっていたため、各町村が連合して学校組合を作るなど、負担を軽くする方法が考えられました。
 明治15年5月には、校舎東南の畑地約150坪を運動場として借り入れています。
 明治22年4月には、学区が改正され、6月に大沢町は越谷町と組合町となり、共和学校を作っています。学校にかかる費用は、それぞれの町ごとに負担する取り決めでした。
第3章 明治中期ごろからの大沢小
 明治23年10月30日、「教育に関する勅語」が発布され、各学校がその謄本をいただきました。さらに同年、「新小学校令」が公布されたことによって、一層、小学校の目的や目標が明らかになりました。
 また、明治35年5月9日に組合令が解消され、大沢町立尋常小学校となりました。
 また、日清・日露戦争によって、国民教育の重要性が認められるにつれ、日本は先進国の仲間に入るためにも、義務教育の延長が強く望まれ、明治40年に小学校令を改正し、尋常科を6カ年に延長することになりました。
第4章 大正のころ
 大正2年1月、現在の市立体育館のあたりに新校舎が完成し、そこに移りました。
 また同じ頃に、小学校卒業後3カ年、農業教育を主として行う組合立東武農業学校が設立されました。
 大正11年4月より、高等科が作られ、大沢町立大沢尋常高等小学校となりました。当時は、1・2年生が一緒に勉強をしていて、大正12年3月の卒業生はわずか8名でした。大正13年の卒業生は11名、翌14年は4名でした。また、大正14年4月には、大沢町役場が校庭内に完成し、講堂において開庁式を行いました。
 大正12年9月1日正午ごろ、関東一帯に大地震(関東大震災)が起こりました。火災が発生し、東京は焼け野原になりました。本校の校舎は大した被害はありませんでしたが、10日間の臨時休校となりました。市内では、大相模小学校の被害が最もひどく、大聖寺などの寺院を仮校舎として使用し、授業を行っていたようです。
第5章 昭和のはじめごろ
 昭和14年、「青少年学徒に賜わりたる勅語」が発布されて、皇国思想(日本は天皇の国であるという考え方)が高まり、「超国家主義」(個人よりも国家を優先するという考え方)「軍国主義」(軍隊の力を強くし、戦争で国を盛んにし、領土を広げようとする考え方)が教育の中でも強くなりました。毎月1日を「戦場で苦労している人に感謝する日」と決め、自分たちができることに努力しようとしていました。この頃のお弁当は、日の丸弁当でした。
 この頃、軍部の指示もあって、青年学校ができました。普通科、本科からなり、普通科は尋常小学校の卒業者、本科は普通科および高等小学校の卒業者を入学させていました。この青年学校は昭和22年まで続きました。
第6章 国民学校時代
(1)その頃の教育内容
 昭和12年7月から中国と戦争を始めて、ずっと長い間戦争が続き、太平洋戦争になりました。
 昭和16年3月、国の命令で今までの小学校は、国民学校という名前に変わりました。大沢小学校も明治からずっと使われてきた名前を大沢町立大沢国民学校と変えました。学校の名前を変えただけでなく、8年間の義務教育も決められました。
 その頃の様子を昭和18年に卒業した人に聞いてみると、
 「廊下や床は、みんな一生懸命にみがいてピカピカでした。朝礼では戦争に関係のある話が多く、授業中に突然、「防空訓練」が行われました。また、授業中によそ見をすると、バケツに水を入れたものを両手に持って長い時間立たされるなど、その頃の先生はきびしかったものでした。修身の時間には教育勅語を暗唱し、国史の時間には、今までの天皇の名前を全部覚えたものです。」と、話してくださいました。
(2)戦争中の学校生活
 戦争中は、勉強も生活も全部「お国のため」ということでやっていました。男の人が戦争に行ってしまうので、農家では働く人がいなくなってしまい、小学生が手伝いにいっていました。田畑の草取りをはじめ、田植え・麦刈り・稲刈り、また空き地を耕して畑にし、食べ物がないのでさつまいもを植えたりしていました。秋にはイナゴ取りに行って、一日中過ごしてしまうこともありました。これも、食べ物がなくなっていたからです。このような労働は、とてもきびしいものでした。
 その他にも、小学生は兵隊さんを見送ることもやりました。日の丸の旗をふって、軍歌を歌って、駅まで送っていました。また、戦争に勝つようにと、神社にお参りにも行っていました。
 先生たちの服装は、男の先生は国民服にゲートル、女の先生はモンペ姿でした。子どもたちは、防空頭巾を持って、継ぎはぎの服を着ていました。はだしの子どもも多くいました。
 勤労動員といって高等科の男子生徒は熊沢工場へ、女子は徳村製帽所へ行くなど、戦争が終わるまで一生懸命働いていました。
第7章 戦後から現在まで
(1)新しい歩み
 昭和20年8月15日、苦しかった戦争は終りました。これにより、米国をはじめ、連合国(英国・ソ連・中国)は教育に対して多くの命令を出しました。今までの教育の考え方はくずれ、新しい戦後教育がはじまりました。また、教科書が間に合わないために「墨塗り教科書」が使用されました。
 戦争は終わりましたが、今まで絶対に正しいと信じていたものがくずれ、世の中は大きく変わりました。
 昭和22年3月31日、教育基本法学校教育法が公布され、新しい教育・六三制教育が行われることになりました。大沢小学校も戦争中の大沢国民学校から大沢町立大沢小学校として再出発することになりました。
(2)町村合併と市制施行
 昭和29年11月3日、町村合併(二町八ケ村)により大沢町が廃止され、校名が越谷町立大沢小学校と改められました。さらに昭和33年11月3日には市制が施行され(人口48318人)、小中学校の旗行列が大々的に行われました。校名も越谷市立大沢小学校と改められ、現在に至っています。
 昭和34年10月9日には、校舎を旧大沢中学校跡(現在地)に移転しました。
(3)学校給食の開始
 学校給食法の成立により、昭和36年2月には給食室が完成し、市内では越ケ谷小学校に次いで、学校給食が実施されました。当時の献立は、大きなコッペパン・脱脂粉乳・カレー等で、子どもたちには大変喜ばれていました。
 昭和41年には学校給食研究発表会を行い、県内から多数の先生方が集まりました。43年には大阪府で行われた全国学校給食研究大会で文部大臣賞を受賞しています。
(5)プールの完成
 昭和36年ごろ、プールがないため、子どもたちは徒歩で大袋小学校のプールまで通っていました。そのため、保護者・教師・地域の方々から「ぜひプールを・・・」という声があがり、三者が一体となってプール建設委員会がつくられました。寄付金を集めたり、市にお願いを続けた結果、昭和38年8月7日、縦25m・横11.5m・水深80cm〜110cmのプールが完成しました。越谷市内では3番目でした。
(6)新設校の誕生
 昭和42年ごろから、児童数の増加が特に目立ってきました。同年8月に校舎(現第2校舎)が増築され、昭和45年には教室不足のためプレハブ教室を10教室使用、同年8月に校舎(現第1校舎)を増築しましたが、児童数の増加には追いつきませんでした。
 そのため、昭和46年に大沢北小学校、48年に北越谷小学校、53年に鷺後小学校を創立し、学区を分離しました。
(7)昭和50年代〜現在
 昭和40年代までは、本校には体育館がありませんでした。雨天時は体育の授業ができなかったため、本校第二校舎と隣の大沢第二体育館との間に陸橋をつくり、そこを通って大沢第二体育館で体育を行うようにしていました。そのため、体育館建設が急がれ、昭和50年4月に完成しました。 本校は位置がきわめて交通量の多いところにあるため、通学内外における安全の確保が大きな課題となっていました。
 昭和50年6月、越谷市教育委員会・埼玉県教育委員会ほか、2団体から2年間の研究委嘱を受けました。交通安全教育の習慣化をめざして研究を行い、大きな成果をおさめました。
 昭和53年2月7日。この日は明治10年2月7日に大沢学校として照光院に開校されて以来、100年にあたることから、輝かしい伝統と業績を祝し、創立100周年記念式典を盛大に行いました。
 昭和63年3月下旬、校舎の一部が新築されるため、やがて取り壊される木造の旧校舎内を整理していたところ、50センチ立方程度で全面ガラス張りの木製の箱が発見されました。
 中には西洋人形と日本人形が納められていました。 さらに、西洋人形のためのパスポートと送り状が入っており、その人形の名前は、「ワーテラ・ヘズ」であることが分かりました。
 現在、埼玉県に存在する青い目の人形は12体。越谷市では、本校のみです。
 昭和62年・63年・平成元年の3年間、学校・家庭・地域推進校として、文部省から道徳教育の研究委嘱を受け、今年度まで継続して研究に取り組んでいます。
 平成9年2月、創立120周年記念式典が行われました。
 また、和室「けやきの間」が完成し、和室開きを行いました。